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東京地方裁判所 昭和53年(ワ)439号 判決

原告 吉田忍

右訴訟代理人弁護士 浅井通泰

被告 東京都

右代表者東京都知事 鈴木俊一

右指定代理人 飯田務

〈ほか三名〉

被告 山田堅治

右訴訟代理人弁護士 武藤正敏

同 高橋勝徳

同 山下卯吉

主文

一  被告東京都は原告に対し、金二五万円及びこれに対する昭和五三年一月二九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告の被告東京都に対するその余の請求及び被告山田堅治に対する請求は、いずれもこれを棄却する。

三  訴訟費用は、原告に生じた費用の三分の一と被告東京都に生じた費用を被告東京都の負担とし、原告に生じたその余の費用と被告山田堅治に生じた費用を原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告東京都は原告に対し、二五〇万円及びこれに対する昭和五三年一月二九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告山田堅治は原告に対し、一五〇万円及びこれに対する昭和五三年一月二八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二当事者の主張

一  請求原因

1  被告山田堅治(以下被告山田という。)の違法行為とその結果

(一)(1) 警視庁碑文谷警察署の巡査で、同警察署柿ノ木坂派出所に勤務していた被告山田は、昭和五一年一〇月五日午後九時四五分頃、東京都世田谷区野沢四丁目五番二四号先路上を警ら中、折から自転車に乗って同所を通りかかった原告に対し、職務質問を行ったが、右職務質問に対する原告の応答に憤慨し、原告を自転車から引きずり降して自転車を倒し、原告の襟首を左手で掴んで首を締め上げて、道路端まで引張る等の暴行を加えた。

(2) 右暴行を受けたため原告がこれを振り払おうとして、とっさに被告山田の胸元を掴んで四、五回揺振ったところ、これに憤激した同被告は原告を路上に転倒させて同日午後九時五六分頃公務執行妨害罪の現行犯人として逮捕し、午後一〇時一〇分頃、碑文谷警察署司法警察員に引致した。

(3) 同日、被告山田は、同署巡査部長訴外斉藤昭三から、右逮捕時の状況について尋問されたのに対し、真実は、右(1)、(2)記載のとおりであったのに、これを秘し、原告が自転車から降り、自転車の脚を立ててから、同被告に対し、「お前まだ若いな。名前何と言うんだ。」と言いながら、同被告の制服の左襟付近を右手で、右肩付近を左手でそれぞれ掴み、同被告の体を後に押したり前に引きずったりした旨の自己の記憶に反する虚偽の供述をし、前記斉藤巡査部長にその旨の供述調書を作成させた。

(二) その後、原告は、原告に対する、勾留請求が却下され、釈放された同月八日午後五時頃までの間、前記逮捕に引続き四日間にわたって留置された。

次いで、同年一一月二四日、渋谷区検察庁検察官は本件公務執行妨害被疑事件につき、原告に対する暴行被告事件として渋谷簡易裁判所に公訴を提起すると同時に略式命令の請求をし、同裁判所は同年一二月六日原告に対し罰金五万円に処する旨の略式命令を発した。そこで原告は、同裁判所に対し、右略式命令に対する正式裁判の請求をしたが、同五二年三月二二日、同裁判所が原告を罰金三万円に処する旨の判決をしたため更に、同年四月一日頃、東京高等裁判所に控訴を申立て、同年一〇月三一日同裁判所により無罪の判決の言渡を受けた。

2  損害と相当因果関係

(一) 原告は、被告山田の前記各行為により次の損害を蒙った。

(1) 被告山田の前記暴行、逮捕による損害慰藉料一〇〇万円

原告は、デザイン、広告等に関する知識を生かして昭和五一年八月頃から独立し希望に燃えて広告業を自宅で営んでいたところ、本事件の発生により、原告の社会的名誉が落ちたことは勿論、自家営業の自信も失い、同年一〇月頃から自家営業を廃して株式会社アイムに就職せざるを得なくなっただけでなく、国民の利益を保護するはずの現職警察官から一方的な暴行を受けたうえ、公務執行妨害罪で逮捕されたことによる精神的損害は、右暴行、逮捕の違法性に照らし二〇〇万円を下らないが、同被告の職務質問に対する原告の応答にも多少問題があったことその他の事情を考慮し、その慰藉料は一〇〇万円が相当である。

(2) 前記逮捕に引続く留置及び刑事裁判による損害

(イ) 慰藉料一〇〇万円

原告は、前記のとおり、違法に公務執行妨害罪で逮捕され四日間にわたる拘禁を受け、更に昭和五一年一一月二四日渋谷簡易裁判所に公訴を提起されてから同五二年一〇月三一日東京高等裁判所において無罪の判決を得るまで約一年間にわたり、暴行被告事件の被告人としての生活を余儀なくされ、前記株式会社アイムにおける業務にも支障を生じ、右刑事裁判手続を受けていることもあって、同五二年一〇月中旬頃、同社より会社を辞めるように言渡され、その後暫く失職する等肉体的、精神的に多大の打撃を受けたので、その精神的損害は一〇〇万円を下らない。

(ロ) 弁護士費用三〇万円

原告は、前記のとおり、昭和五二年三月二二日渋谷簡易裁判所において暴行罪で罰金三万円に処する旨の判決を受けたが、同年四月一日東京高等裁判所に控訴の申立をし、同年五月六日頃本訴原告訴訟代理人に右控訴審における弁護を依頼し、同年一二月二四日着手金一五万円及び謝金一五万円をそれぞれ支払った。

(3) 本訴請求に関する損害

弁護士費用二〇万円

原告は、本件訴を提起するにつき、昭和五三年一月一〇日、本訴原告訴訟代理人に訴訟委任し、着手金二〇万円を支払う旨約した。

(二) 逮捕行為は通常起訴を目的としてなされるものであるところ、被告山田の職務地位に照らし、同被告が公務執行妨害の罪で原告を現行犯逮捕すれば、刑事手続上その現行犯逮捕を基礎として、司法警察員において逮捕に引続き原告を留置し、また、検察官において事件を起訴することは、十分予見可能であったといえるから、同被告の前1、(一)、(2)記載の逮捕行為は、前2(一)(1)記載の逮捕行為自体の損害との間だけでなく同(2)記載の右逮捕行為に基づく刑事裁判手続に伴う損害との間にも相当因果関係がある。

(三) 被告山田は、本件公務執行妨害の罪ないし暴行の罪の成否を決する唯一の証人的地位にあったものであり同被告の前記斉藤巡査部長に対する供述調書を唯一の証拠として、原告は、前記のとおり昭和五一年一〇月五日から同月八日までの四日間にわたり、司法警察員により留置され、更に、同年一一月二四日渋谷区検察庁検察官により暴行罪で起訴されたが、右の事態は前記供述調書がなければあり得ない結果であり、しかも被告にとり当時十分予見可能な結果であったといえるから、同被告の前1、(一)、(3)記載の供述と前2、(一)、(2)記載の刑事裁判手続に伴う損害との間には相当因果関係がある。

3  被告らの責任

(一) 被告東京都(以下被告都という。)の責任

被告山田は、被告都の公権力の行使に当る公務員であり、その職務を行うについて、故意又は過失により前1、(一)、(1)及び(2)記載のとおり、原告に暴行を加え公務執行妨害罪の現行犯人として原告を違法に逮捕し、前2、(一)、(1)ないし(3)の各損害合計二五〇万円を原告に加えたものであるから、被告都は、国家賠償法一条一項により右各損害を賠償すべき義務がある。

(二) 被告山田の責任

被告山田は、故意又は過失により、前1、(一)、(3)記載のとおり、虚偽の供述をし、違法に前2、(一)、(2)及び(3)の各損害(合計一五〇万円)を原告に加えたものであるが、右供述は被告山田の私的行為であるから、同被告は原告に対し、民法七〇九条により右各損害を賠償すべき義務がある。

4  よって、原告は、被告都に対し、二五〇万円及びこれに対する前1、(一)、(1)及び(2)記載の不法行為の日の後である昭和五三年一月二九日から支払ずみまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金、並びに、被告山田に対し、一五〇万円及びこれに対する、前1、(一)、(3)記載の不法行為の日の後である同月二八日から支払ずみまで同じく年五分の割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求める。

二  請求原因に対する認否

1  被告都及び被告山田

(一)(1) 請求原因1、(一)、(1)の事実中被告山田の身分に関する事実及び警ら中の被告山田が原告主張の日時、場所において原告に対し職務質問をしたことは認め、その余の事実は否認する。

(2) 同(2)の事実中、原告が被告山田の胸元を掴んで四、五回揺振ったこと、被告山田が原告主張の日時頃原告を路上に転倒させて公務執行妨害罪の現行犯として逮捕し、引致したことは認め、その余の事実は否認する。

(二) 同1(二)の事実は認める。

(三) 同2、(一)、(2)、(3)の事実は不知、各損害額は争う。

2  被告都

(一) 同2、(一)、(1)の事実は不知、損害額は争う。

(二) 同2、(二)は争う。

渋谷区検察庁検察官が原告に対する公訴を提起し略式命令を請求したこと、渋谷簡易裁判所の裁判官が略式命令を発したこと及び原告の正式裁判の申立に対し有罪判決を言渡したことは、いずれも検察官及び裁判官らの固有の権限と判断によって行われたものであって、被告都の警察官の権限が及ばない行為であるから、原告が右一連の刑事裁判手続で損害を蒙ったとしても、被告山田の逮捕と右公訴提起及び有罪判決の間には何ら因果関係がなく、被告都がその責任を負担する理由はない。

(三) 同3、(一)の事実中、被告山田が被告都の公権力の行使に当る公務員であることは認め、その余は争う。

3  被告山田

(一) 同1(一)(3)の事実中、被告山田が原告主張の日に同署巡査部長斎藤昭三に対し原告主張の内容の供述をしたこと、同日右斉藤が右内容の供述調書を作成したことは認め、その余の事実は否認する。

(二) 同2(三)は争う。

逮捕された被疑者を留置する権限は司法警察員に属し、公訴権の行使は検察官の専権に属するから、碑文谷警察署司法警察員が原告を留置し、渋谷区検察庁検察官が原告について公訴を提起したのはそれぞれその固有の権限と判断に基づいてしたのであって、いずれも被告山田の権限の及ばない行為であり、従って、被告山田が原告を逮捕した経過を供述したことと右留置及び公訴提起の間には因果関係がなく、被告山田が原告の損害を賠償すべき理由はない。

(三) 同3、(二)は争う。

なお、警察官が公権力の行使として被疑者を逮捕し、その経過を供述することは、警察官の職務行為そのものである。従って、国家賠償法一条一項の規定の趣旨から被告山田が直接原告に対し賠償責任を負うものではない。

三  抗弁(被告都)

1  被告山田は、住宅街で夜間人通りの少い裏通りを無燈火で婦人用自転車に乗ってくる原告を発見し道路交通法違反の嫌疑に併せて盗難車ではないかとの疑を持ち、請求原因1、(一)記載のとおり原告に対し職務質問をするため停止させたうえ、原告に自転車の所有者について質問したところ、原告が「自転車は友達から買った。その友達はどこにいるかわからない。」とか「実は姉が買った。」等曖昧な答えをしたので、不審を強め、更に質問を継続するため、原告に自転車から降りて道路の端へ寄るように求めた。

2  これに対し、原告が質問を避けるようにしてそのまま行き過ぎようとしたため、同被告は、自転車のハンドルに手をかけて質問に答えるよう説得したが、原告が右説得に応じないで強引に立去ろうとしたので、益々原告に対する不審を強め、「逃げるのか。」と言って原告の左腕に手をかけ、道路の端へ誘導した。すると、原告は、自転車から降り、「お前まだ若いな。どこの交番だ、名前は何と言うんだ。」等と怒鳴りながら詰め寄り、同被告が「柿ノ木坂派出所の山田だ。若いのは関係ないでしょう。」と答えると、やにわに同被告の制服の襟及び肩を掴み前後に揺振りながら強く押してきた。このため、同被告は、後方に押されてさがりながら、原告に対し「公務執行妨害になるぞ。」と二、三回警告し、原告の腕を払おうとしたが、原告が手を離さずなおも同被告の顎を突き上げてきたので、原告をその場に倒し、公務執行妨害の罪の現行犯人として逮捕し、まもなく到着したパトカーに原告を同乗させ、碑文谷警察署に同行し同署司法警察員に引致した。

原告を逮捕した経緯は以上のとおりであって、同被告は、職務質問中暴行を加えてきた原告を公務執行妨害の罪の現行犯人として適法に逮捕したものである。

四  抗弁に対する認否

抗弁1の事実は認め、同2の事実は否認する。

なお、本件現行犯逮捕の状況は、請求原因1、(一)、(1)記載のとおりであり、原告の行為は、同被告の右暴行に誘発された正当防衛行為であり、憤激のあまり自己を見失った同被告が違法に現行犯逮捕したものである。

第三証拠《省略》

理由

一  次の事実については当事者間に争いがない。

1  被告山田は警視庁碑文谷警察署の巡査として同警察署柿ノ木坂派出所に勤務中の昭和五一年一〇月五日午後九時四五分頃、東京都世田谷区野沢四丁目五番二四号先路上を警ら中、自転車に乗って同所を通りかかった原告に職務質問をするため停止を求めた。

2  停止した原告に対し、被告山田が、無灯火で自転車に乗車したとの道路交通法違反の疑いと、原告の乗車していた自転車が盗難車ではないかとの疑いで職務質問を始めた。

3  これに対し原告は、自転車に跨って路面に両足をついたままの状態で簡単な答えをしたが、急ぎの用件があるとして立去ろうとしたところ、原告の答に満足しなかった被告山田は更に職務質問を続けたいとして原告に道路端に寄って職務質問に応ずるよう求めた。

4  しかし原告が容易にこれに応じようとしないでいるうち原告が被告山田の襟を掴み揺振る行為があり、被告山田は原告を公務執行妨害の罪の現行犯人としてその場で逮捕し、同日午後一〇時一〇分頃碑文谷警察署司法警察員に引致し、原告は引続き同月八日午後五時頃まで留置された。

5  被告山田は同署の斉藤昭三巡査部長から、右逮捕時の状況について尋問されたのに対し、原告が同被告に対し「お前まだ若いな。名前なんというんだ」と言いながら同被告の制服の左襟付近を右手で、右肩付近を左手でそれぞれ掴み、同被告の体を後に押したり、前に引きずったりした旨の供述をし、右巡査部長はその旨の供述調書を作成した。

6  同年一一月二四日渋谷区検察庁検察官は原告を、暴行の罪で渋谷簡易裁判所に公訴の提起をすると同時に略式命令の請求をし、同年一二月二六日同裁判所において罰金五万円に処する旨の略式命令があり、これに対し原告が正式裁判の請求をし、昭和五二年三月二三日同裁判所は罰金三万円に処する旨の有罪判決をした。これに対し原告は控訴したところ、同年一〇月三一日東京高等裁判所において無罪の判決がなされ右判決は確定した。

二  右現行犯逮捕に先行してなされた、原告の被告山田に対する暴行について、原告は、被告山田が原告の応答に憤慨し原告を自転車から引きずり降して自転車を倒し、原告の襟首を掴んで首を締め上げて道路端まで引張る等の暴行をなしたためこれを振り払うためになしたものである旨主張し、被告らは、被告山田が立去ろうとした原告に、職務質問に応ずるよう説得し、道路端へ誘導しようとしたのに原告が立腹し、同被告の制服の襟及び肩を掴んで前後に揺振りながら強く押して来たのであって、被告山田が、原告の主張するような暴行をなした事実はない旨主張する。

そこで右の点について判断すべきところ、取調べた全証拠を検討しても、これを証すべき証拠資料としては、右争いの直接の当事者である原告と被告山田の各供述、即ち、原告、被告山田各本人尋問の結果並びに、いずれも成立に争いがない甲第四、第六、第九、第一三号証の二、三、第一四号証、第二一号証(以上いずれも原告の刑事事件の捜査並びに裁判における供述を記載した書面)、同第五、第八、第一五号証(以上いずれも被告山田の刑事事件の捜査並びに裁判における供述を記載した書面)のほかには直接、間接を問わず何ら見当らない。

従って、右争いのある事実については、右各供述によってこれを認定するのほかないところ、原告の供述(原告本人尋問の結果のほか供述を記載した前記書証を含む、以下同じ)と被告山田の供述(原告についてと同じ)はそれぞれ、いずれも前記原告、被告らの各主張に副う趣旨の供述をし、その内容において全く対立しているのでその信憑性について検討する。

1  そこで原告の供述についてみるに、先ず、原告は被告山田によって自転車と共に倒されたと述べている点では終始一貫しているのであるが、その際の状況について、昭和五一年一〇月六日の司法警察員に対する供述調書(甲第六号証)では「お前学生か生意気だ、と言って襟首をつかんでどづいたのです。それで引倒されたのです。」と述べ、同月八日の勾留質問(甲第一三号証の二)においては「警察官に押されて自転車と一緒に私は倒されました。」と述べ、渋谷簡易裁判所の第三回公判期日における被告人尋問(甲第九号証)では、被告山田が原告の左手を両手で引いたり押したりし、お前は学生のくせして生意気だと言った。それで職務質問は終ったと思って先に行こうとしたが被告が両手で原告の左手を掴んだので体の平衡を失って倒れた、との趣旨の供述をし、東京高等裁判所の第三回公判期日における被告人尋問(甲第一四号証)では、被告山田が原告を左方の狭い道の方へ引っ張って行こうとした、それを拒否したところ腕を引っ張られて倒された、倒された後かどうしてこういうことをするのか、そんな権利はないといったら、何だ生意気だ学生かと言って襟首をつかんで来た、との趣旨の供述をし、当裁判所における原告本人尋問においては、原告訴訟代理人の質問に対して、「こいとは言わなかったんですけど、そっちにちょっと来いというような感じで、そこに後向きに引張られたんで、そこでバランスを失って倒れた」と述べ、更に、被告山田が原告の左腕を両手で掴み、後方の路地の方に引張って行こうというような動作があったのでそれを拒否したら、強引に引張ったのでバランスを失って倒れたというのが事実である、との趣旨の供述をしているが、被告訴訟代理人の質問に対しては「襟首を掴まれたり、手を掴まれたり、最終的には肩を両手で引張ったんです」との答をしている。

このように、原告の供述は原告が転倒した際の状況について、被告山田が故意に原告を引倒した(或は押倒した)と述べたり、被告山田が原告を後方の路地に強いて誘導しようとして引張ったため、原告が平衡を失して自転車と共に倒れたと述べたりし、倒れた際の被告山田の行動について被告山田が原告の襟首を掴んで倒した、押されて倒れた、左腕を掴んで引張ったので倒れた、肩を両手で引張られたため倒れたと各様の供述をし、その供述は供述の度に変転している。

次に、倒されてから逮捕されるに至った経過についての供述をみるに、前記甲第六号証においては、引倒されたので、そこまでやるならこっちも徹底的にやってやると怒鳴って頭にきてしまい振払おうとしたががっちり押えられていた、被告山田の襟首の下のボタンの下を左手で掴んで前後にこづいた、被告山田は公務執行妨害だというので手を離してしまった、足蹴りにされて倒され手錠をかけられた、との趣旨の供述をし、前記甲第九号証では、引倒されたあと、被告山田が原告の襟首を掴み、首を締め上げ引張って行ったので、それが原因で原告が反発し、反射的に手を出した、そのうち原因は先を急いでいると言って自転車の方に向おうとしたところ後から足を蹴られたかして、後から掴んで来て倒された、と述べ、前記甲第一四号証では、倒されたので立ち上りながら被告山田になぜこういうことをするのかと言ったら被告山田は、生意気だ、学生かと言って原告の襟首を掴んで来た、互に二、三回押し合った、何か馬鹿臭くなり、急いでいたので自転車の方へ行こうと思って離したら被告山田も何となく離した、ところが後を向いて行こうとしたら肩を掴んで来た、それを振り払おうとしたら足払いをかけて来て倒された、と述べ、本人尋問の結果においては、倒されて立上った後、どうしてこんなことをするんだなど、一言二言あった後に急に被告山田が襟首を掴んだことは鮮明に記憶している、それを頼りにずうっとこの訴訟をやって来た、どういうきっかけで被告山田から手を離したかは記憶がない、との趣旨の供述をしており、その供述の内容は、被告山田が引き倒したことに原告が憤慨して反撃したのに対し、被告山田が公務執行妨害であるとして逮捕したと述べたり、被告山田が原告を転倒させたうえ、原告の襟首を掴んで引張ったので原告が反抗しもみ合いとなったが、一旦両者が手を離して原告が自転車の方に向って歩き出した際背後から被告山田によって逮捕されたと述べたりして一貫していない。

以上のとおり、原告の供述は、最もその主要な点において供述の度に変転して一貫せず、時の経過による記憶の喪失や、供述の際の表現・記録に不正確な点があったとしてこれを考慮に入れたとしても、以上を矛盾なく理解することは到底困難である。また、原告が被告山田に引倒され(或は転倒させられ)てから逮捕されるに至った経緯に関する前記甲第九号証並びに同第一四号証中の、先を急ぐので或は馬鹿臭くなって原告が手を離したら被告山田も手を離した、との趣旨の供述は、原告が先に被告山田に攻撃していた場合か、或は対等な立場で喧嘩抗争していたのであればとも角、原告の前記各供述のように、被告山田が原告を職務質問のためその場に引き止めようとし、更には激昂して攻撃していたとするならばいかにも不自然なことと考えられる。

このように、原告の供述は、その重要な点において疑問とすべき点が多く、これによって、被告山田により先行的な暴行がなされたとする原告主張の事実を認定することはできないものというのほかない。

2  次に被告山田の供述について検討するに、同被告の司法警察員に対する供述調書(前記甲第五号証)によると、被告山田が両手で原告の左腕を掴んで引止めたところ、原告が自転車から降りて、自転車の脚を立てて同被告に対しお前まだ若いな、名前はなんというのだと言いながら制服の左襟付近を掴んだとの趣旨の供述をしているところ、渋谷簡易裁判所における証人尋問(前記甲八号証)においては、「証人の調書を見ますと、被告人は自転車のスタンドを立てたと述べていますが、そのような時間があったのですか。」との弁護人の質問に対し「被告人は自転車から降り、私がスタンドを立てました。」と答え、更に続けて、質問を続けるためスタンドを立てた、自転車を脇に寄せた、原告も被告が抱込むようにして寄せたが抵抗する程嫌がりもしなかった、脇に寄せて間もなく言葉も乱暴になった、と述べており、司法警察員に対して、原告が自分で自転車の脚を立てて、直ちに被告山田に掴みかかって来た旨述べていると著しく異っている。ところが東京高等裁判所における証人尋問(前記甲第一五号証)においては、一旦は、再び自転車の脚は原告が立てたと述べたが、前記供述の変化を示されて尋問された結果記憶がはっきりしない旨述べ、更には、自転車が倒れたか否かについても記憶がない旨答えるに至っている。そして本件における被告本人尋問においては、自転車は原告が降りたあと被告山田が道路端に寄せた、自転車の脚を立てたのは原告であったか被告山田であったか記憶していない、自転車が倒れたことはない、原告は自転車を道路端に寄せたあと原告がつめ寄って来て被告山田の襟を掴んだ、との趣旨の供述をしている。

このように、被告山田の供述は、原告が激昂して、先に被告山田を攻撃したとする点においては一貫しているものの、原告の供述では、被告山田が原告と共に原告の自転車を転倒させた点が最も問題とされているところ、被告山田の供述では、この点につき、原告が自転車の脚を立てたと述べたり、逆に被告山田が立てたと述べたりし、或は自転車が倒れたか否か記憶がないと述べたりしてその都度変転している。そして、原告が脚を立てたとする甲第五号証の記載と、被告山田がこれを立てたとする同第八号証の記載とは、いずれもその前後の事実について、順序立てて、具体的に供述しており、そのいずれかが記憶違いであるとするには疑問がある。特に、被告山田は警察官として、相手方の行動を規制し、必要に応じてこれを逮捕したときは、刑事司法上の必要な手続、措置をとるべき立場にあったのであるから、右抗争の当事者であっても、客観的に前後の事象を観察し、記憶することが要求され、当然にその旨の指導、訓練も経ていると考えられる点を考慮するならば、右供述の齟齬、変転は、その信憑性を著しく減殺するものと言わざるを得ず、原告の供述と同様、前記争点について被告ら主張の事実を認定する資料とすることはできない。

3  以上のとおりであるから、原告、被告山田の各供述のいずれも、これに従って前記争点につき事実を認定することはできないし、また、前記摘示のとおり、両供述相互間においても、主要な点において全くくい違っているため、両供述を綜合して、前後矛盾のない一個の事実を認定することもできない。

そして、右両供述を除いては、右争点、即ち、被告山田の暴行が先行し、原告がこれを防ぐため被告山田に対し暴行をなしたか、原告の暴行が先行し被告山田が逮捕するに至ったかについてはこれを認定するに足る資料は何ら見当らないことは既に判示したとおりであるから、結局、右の事実についてはこれを認定するに足りる証拠がないものというのほかなく結局請求の当否については立証責任の帰するところによって決するのほかない。

三  以上によって判断すると、被告山田の暴行があったことを前提として、その暴行による損害賠償請求、並びに司法警察員に対し虚偽の陳述をしたことによる損害賠償請求はいずれも、その前提たる事実につき立証がないものとして棄却するのほかない。

次に、逮捕は被逮捕者の身体を拘束し、その自由を制限するという法益侵害を伴うものであるから、逮捕による法益侵害が受忍されるべきものとするためには、当然に、逮捕が法定の要件を充足していることを要するものというべきである。従って、当該逮捕の適法性が争われた場合においては、その適法であることを主張する側において、逮捕が法定の要件を充足していること、或は少くとも、逮捕者においてその要件を充足していると判断したことにつき過失のないことにつき主張し、立証することを要するものと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、既に判示したとおり、その供述に副った事実を積極的に認定することはできないにしても原告において終始、被告山田により自転車に跨ったまま転倒させられた旨供述していること、これを否定する趣旨の被告山田の供述に前示のとおり疑問があって措信できないことを勘案すると、被告山田が自転車に跨ったままの原告を道路端に誘導しようとして、故意ではないにしても、原告を転倒させたことが原告の反撃を誘発したとの疑念(前記東京高等裁判所はこのように判示して無罪の判決をなした――成立に争いがない甲第一号証)は強く残るものというべく、他にこれを否定するに足りる証拠のないことも既に判示したとおりである。

従って、被告山田のなした現行犯逮捕につき、その要件である公務執行妨害の事実があったものと認めるには十分な証拠がなく、また、逮捕者である被告山田が、右事実があると認めたについて過失がなかったとする点についても何らの主張も立証もない。

よって、被告山田の逮捕を原因とする、被告都に対する損害賠償請求は理由がある。

そこで、損害の範囲について検討するに司法巡査が被疑者を逮捕したときは、直ちに司法警察員にこれを引致し、司法警察員は被疑者を留置する必要がないと思料するときは、直ちに被疑者を釈放し、留置の必要があると思料するときは、被疑者が身体を拘束された時から四八時間以内にこれを検察官に送致する手続をしなければならず、検察官は、留置の必要がないと思料するときは直ちに被疑者を釈放し、留置の必要があると思料するときは送致を受けた時から二四時間以内(被疑者が身体を拘束された時から七二時間以内)に裁判官に勾留請求をするか、公訴の提起をしなければならないのであるが、逮捕行為及び引致に引続きなされる右留置は、当該逮捕の基礎となった被疑事件の捜査のため逮捕の効力として被疑者の身体拘束を一定時間内継続することを認めたもので、逮捕行為と一体をなす手続であり、被疑者を受取った司法警察員、検察官が、これを釈放しない以上被疑者は右期間留置されることになる。従って本件現行犯逮捕と原告が逮捕それに続く留置によって被った損害とは相当因果関係にあるといわなければならない。

更に原告は逮捕をすれば、検察官において事件を起訴することは十分予見可能であるから、本件現行犯逮捕と本件刑事裁判手続に伴う損害との間にも相当因果関係がある旨主張するが、本件公訴の提起が違法であるかどうかは別として(刑事事件において無罪判決が確定したからといって、当該公訴の提起が直ちに違法といえないことは当然である。)、当該事件につき公訴を提起するかどうかは、検察官の専権に属するところであり、検察官は起訴時迄に収集した証拠、今後得られるであろう証拠を検討し、公判を維持するに足るだけの犯罪の嫌疑があるかどうか、その他公益的な見地等総合的に判断し、当該被疑事件につき公訴を提起するかどうかを決定するのであり、逮捕したからといって検察官がその被疑者を起訴することにならないことはいうまでもない。右のように公訴を提起するかどうかは、検察官が犯罪の嫌疑の有無(その判断には逮捕後収集した証拠が当然含まれる。)等を判断して独自の立場で決すべきものである以上、原告の右主張は失当である。

従って、本件現行犯逮捕による損害として原告の主張する、逮捕行為自体、それに引続く留置については相当因果関係を認めることができ、よって生じた損害についてのみその請求は理由がある。

よって進んでその損害について検討するに、原告が逮捕並びにこれに引続いてなされた留置(その期間については前記争いのない事実のとおり)による精神的、身体的苦痛については、職務質問に対する原告の態度に多少問題があった(この事実は原告の認めるところである。)ことのほか、逮捕に至った前後の経緯につき具体的事実を確定し難い前記事情を考慮し、更に原告が逮捕された当時、独立して広告デザイナーの業務を営んでおり、逮捕がその妨げとなった(この事実は《証拠省略》によって認められる)ことを勘案するとその額は一五万円が相当である。

また、本訴を提起するにつき原告が原告代理人に訴訟委任し、着手金二〇万円の支払を約したことを認めることができるが本件において認容すべき金額、訴訟の性質、内容に照らし、うち一〇万円をもって右逮捕と相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。なお原告は、本件逮捕及び留置の結果により原告が自信を失って広告業の自営を断念し、株式会社アイムに就職することを余儀なくされ、更には右会社を辞職するのやむなきに至ったと主張し、原告本人尋問の結果によると右廃業、就職、退職の各事実を認めることができるが、原告本人尋問の結果をもってしても、本件逮捕、留置と右廃業、退職との間に相当因果関係があると認めるに足りないし、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

四  よって、原告の本訴請求は、被告都に対し、金二五万円とこれに対する不法行為の日の後である昭和五三年一月二九日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、これを認容し、被告都に対するその余の請求及び被告山田に対する請求は、いずれも失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を適用し、なお仮執行の宣言の申立については相当でないから却下することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 川上正俊 裁判官 満田忠彦 裁判官荒井九州雄は職務代行を解かれたため署名押印することができない。裁判長裁判官 川上正俊)

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